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Bach, Johann Sebastian J.S.バッハ

Johann Sebastian Bach
ヨハン・セバスティアン・バッハ

(1685年3月21日-1750年7月28日)


18世紀に活動したドイツの作曲家。
「音楽の父」と称される巨匠。

<時代背景>

この時代は、今のドイツとオーストリアまでを含んだ範囲を
ドイツ帝国と呼んでいたが、
皇帝はいわば名誉的地位を持つのみで、
実際は貴族や大司教、修道院が領有する
400にものぼる大小の小国家の集まりであった。

南部の地方では
ローマ・カトリックを信仰する小国家が多かったが、
バッハの生まれた中部ドイツでは、
大多数がルター教会を領内の信仰対象と決めていた。

バッハが生まれたアイゼナッハは、
ルターが新約聖書をドイツ語に翻訳した地でもあり、
バッハが洗礼を受けた聖ゲオルグ教会は、
ルターが説教をした教会である。
ルターの音楽に対する考えは、
「音楽は神のすばらしい賜であって、
本来神に発するものであり、
すぐれた音楽は様式のいかんを問わず神を讃えうる」
というものだった。

ルター教会を信仰する領地では、
領民からの税金で教会が維持されていた。
従って自分の町の教会に立派なパイプオルガンを置き、
そこから次々に素晴らしい音楽が生まれてくることは
町の人々の誇りであった。

このころの教会オルガニストはオルガンの演奏だけでなく、
次々に行なわれる礼拝のための
教会音楽の作曲の能力をも併せ持つ必要があり、
俸給も高く大変名誉ある地位であった。

また、学校教育では宗教音楽が第一の目的とされていたため、
ギムナジウム(10歳から18歳の青少年のための
教会附属高等学校)には、
オーディションに合格して聖歌隊やオーケストラに入れば
学費や寄宿費が免除されるという制度もあった。
ギムナジウムの聖歌隊はカントライと呼ばれ、
自分の子供がカントライに入ることや、
自分の町のカントライが素晴らしい演奏をすることを、
町の人々は大いに誇りにしていた。
そのカントライの指導者兼聖歌作曲家であるカントルは、
ギムナジウムの主任教授の次に権威のある地位とされ、
音楽家にとって大変名誉ある役職であった。

しかし、この時代の音楽家としての最高の地位は、
宮廷楽団の楽長であった。
ドイツではほとんどの貴族が常傭楽団をかかえ、
音楽は客をもてなすための食事のメニューと同様に
必要不可欠のものとされており、
宮廷楽長は領主の要求に応じて、
次々と楽曲を作曲する必要があった。

<生涯>

バッハ一族は、ドイツ中部テューリンゲン地方で
代々音楽を生業とした大一族。
2世紀半の間に約60人の音楽家を輩出した。
ただし、当時はまだ貴族の子は貴族、
農民の子は農民、というように身分が固定されており、
職業音楽家の家系は
職業音楽家以外の選択肢があまりなかった、
という事情も考慮しなければならない。

1685年
アイゼナッハの町楽師ヨハン・アンブロジウスの
第8子(末子)として生まれる。

1695年(10歳)
両親が死去し、オールドルフに住む、
兄ヨハン・クリストフの家に引き取られて勉学に励む。
ヨハン・クリストフはすでにオールドルフで
オルガニストとして一家をなしていた。
おそらくこの時バッハは、
パッヘルベルから教えを受けた兄から
音楽教育を受けていたと思われる。

~伝説その1~
兄は、当時有名だった作曲家たちの
クラヴィーア曲集を所持していたが、
バッハは見せてもらえず、
毎夜、秘密で鍵のかかった戸棚の隙間から
兄の楽譜を取り出して、
月明かりで写し取ったといわれている。
最後には兄に見つかり、
全部取り上げられてしまったらしい。

1700年(15歳)
友人とともにリューネブルクに移り、
ミカエル教会付属学校の給費生として生活する。
聖歌隊ではボーイ・ソプラノで有能ぶりを発揮した。
変声期を迎え、隊員として役に立たなくなったことが、
オルガンという楽器への興味を目覚めさせたようである。
同じ町のヨハネ教会にいたオルガニスト、
ベームからは大きな影響を受けた。

リューネブルクから北約50キロにハンブルクがある。
ハンブルクは北ドイツ最大の都市で
音楽的にも最も盛んな地のひとつであった。
バッハにとってハンブルク訪問の
最も魅力的な目的は、
聖カタリーナ教会のオルガニスト、
ラインケンの演奏を聴くことであった。
またハンブルクはオペラにおいても盛んな所で、
バッハにまたとない体験となった。

また、リューネブルク南にあるツェレの宮廷では、
領主がフランス人の妻を娶っていたためか
フランス音楽が盛んであった。
この宮廷楽団からバッハは
フランス音楽を吸収することになる。

1703年(18歳)
ヴァイマールの宮廷楽団に就職。
ヴァイオリンとヴィオラ奏者として半年間務める。

その後まもなくアルンシュタットの新教会の
初代オルガニストになる。
この時期のバッハは人間的にも未熟で、
血気盛んな若者であった。

~伝説その2~
1705年秋、バッハは4週間の休暇を取り、
リューベックへ向かった。
その目的は聖マリア教会のオルガニスト、
大音楽家ブクステフーデの音楽を把握するためであった。
アルンシュタットから400kmの道のりを
徒歩で出かけたともいわれている。
バッハはこの休暇を
無断で4ヶ月に延長した(実際は3ヶ月)。
バッハがいかにブクスフーデの音楽に魅せられたかが分かる。
これはバッハのオルガン作品に大きな影響を与えた。
しかし、バッハが身に付けたこうした楽風は
アルンシュタットの会衆には不評ではあった。
礼拝におけるバッハの演奏は大胆、前衛的なものとなり、
コラールの伴奏に装飾や不協和音を用い、
間奏では目もくらむような即興演奏をしたといわれる。
2月、教会当局によってこの点と聖歌隊指導の怠慢、
休暇の無断延長が問題にされ、叱責を受けた。
さらに当時女人禁制であったオルガン席で
おそらく未来の妻バルバラを歌わせたという譴責も加わった。

1707年(22歳)
すでにバッハの能力は高く評価されており、
ミュールハウゼンの聖ブラジウス教会オルガニストに
異例の好条件で招かれる。
しかし、当時、ルター派には
敬虔派と正統派といわれる2つの派の対立があり、
バッハは音楽を重んじる正統派を支持したが、
聖ブラジウス教会の牧師は敬虔派で音楽の役割を軽視した。

同じ年、遠戚にあたるマリア・バルバラ・バッハと結婚。
2人の間に生まれた7人の子供のうち、
フリーデマンとエマヌエルは高名な音楽家になった。

1708年(23歳)
再びヴァイマールに移り、
宮廷音楽家兼宮廷オルガニストとして務める。
多くのオルガン曲はこの時期の作品である。
バッハの棒給はミュールハウゼン時代の2倍近くで、
一人前の音楽家として迎えられたといえる。

1714年(29歳
ヴァイマール宮廷楽団の楽師長に昇進、
一月に一曲のカンタータを作曲、上演する。
この時、アイゼナッハの宮廷に仕えていたテレマンとも親しく交際をする。

また、オランダに留学していたヴィルヘルム・エルンスト公の甥が、
オランダでイタリアやフランスの音楽に接し、
多くの協奏曲などの楽譜を集めてきた。
このヴィヴァルディを中心とするイタリアの協奏曲は、
バッハにたいへん大きな影響を与えた。

~伝説その3~
1717年にケーテン公の宮廷楽長に任命されたが、
ヴァイマール公はバッハの辞任を許可せず、
4週間バッハを拘禁した。

1717年(32歳)
ケーテンの宮廷楽長となり、恵まれた環境の中で、
数多くの世俗音楽の名作を作曲する。
ケーテンの若き領主、レオポルト侯は、
自らも音楽をやるたいへんな音楽愛好家であった。

この時期にバッハは教会音楽を殆ど作曲していない。
それはこの侯国がまもる教派が
100年来カルヴァン派の改革派であったためで、
この教派は教会音楽を重んぜず、制限もあった。
それでもルター派信徒のバッハが
この宮廷で働くことには支障はなかった。
この侯国にもルター派教会があったし、
ルター派の学校もあった。
レオポルト侯の母はルター派の信徒でもあり、
この点に関しては寛大であった。、

1720年(35歳)
夏、領主に従っての旅行中に
妻が急死する不幸に見舞われ、
翌年、当時20歳の宮廷歌手
アンナ・マクダレーナ・ヴィルケと再婚する。
彼女は有能な音楽家であったと見られており、
夫の仕事を助け、作品の写譜などもしている。
『アンナ・マクダレーナ・バッハのためのクラヴィーア曲集』は
彼女のためにバッハが贈った楽譜帳で、
バッハの家庭で演奏された曲が折々に書き込まれていった。
アンナ・マクダレーナとの間に生まれた13人の子供のうち、
クリスティアンは彼の子供の中では
音楽家として最も社会的に成功し、
イングランド王妃専属の音楽家となった他、
モーツァルトに大きな影響を与えた。
彼らの他にも、バッハには成人した4人の息子がいるが、
彼らはみな音楽家として活動した。

バッハが再婚した8日後に、
彼が仕えるレオポルト侯も19歳の花嫁を得た。
だが、バッハを失望させたのは、
この侯妃が音楽に興味がなく、
レオポルト侯までもが、
音楽に熱意を無くしてしまった点であった。
バッハは以前より教会音楽への関心のない
ケーテンからの転職を考えていたので、
このことはそれに拍車をかけた。

1723年(38歳)
ライプツィヒの聖トーマス教会のカントル(音楽監督)に就任。
だが、この地位は事実上ライプツィヒ市の
全教会の音楽監督にあたっており、
彼のオルガン奏者としての評価は高いが、
総合的な職務カントルとしての能力について
疑問視されていた。

バッハがなぜケーテンの高い地位から、
棒給が安くて問題の多い地味な仕事を選んだかは
不思議であり、興味深いことである。
ケーテンでは妻マグダレーナも歌手として棒給を得ていたが、
ライプツィヒでは単なる主婦となる。
大都市での生活費の高さと
子だくさんのバッハ家は楽なものではなかった。
加えて幾度も市当局や校長とのごたごたもあり、
何度かライプツィヒを去ることも考えることとはなった。
なぜならカントルは複数の職務と複数の上司の支配下にあって、
音楽以外にも雑務の多い地味な仕事であったからだ。
しかし、バッハにとってこれが永久就職となった。

1736年(51歳)
ザクセンの宮廷作曲家の称号を得る。
バッハはすでにケーテンとヴァイセンフェルスの
宮廷楽長の肩書きを有していた。
今までよりはるかに大きなドレスデン宮廷は
より権威ある肩書きであった。

1747年(62歳)
エマヌエルが仕えていた、
ベルリンのフリードリヒ大王の宮廷を訪問する。
これは『音楽の捧げもの』が生まれるきっかけになった。

1749年(64歳)
眼疾患が悪化し手術を受けたが、
医師テイラーの技術が未熟であったため、
手術後は病床に伏す。

1750年
65歳でこの世を去る。

生前の彼は作曲家というよりも
オルガンの演奏家・専門家として高く評価されていたが、
彼の楽曲は息子や弟子たちによって細々と、
しかし確実に受け継がれ、
死後100年前後経った後に「再発見」されて
高く評価されるようになった。


<作品>
バッハは幅広いジャンルにわたって作曲を行い、
オペラ以外のあらゆる曲種を手がけた。
その作風は、通奏低音を基礎とした和声法を用いつつも、
根本的には対位法的な音楽であり、
当時までに存在した音楽語法を集大成し、
さらにそれを極限まで洗練進化させたものである。
従って、バロック時代以前に主流であった
対位法的なポリフォニー音楽と
古典派時代以降主流となった
和声的なホモフォニー音楽という
2つの音楽スタイルにまたがり、
結果的には音楽史上の大きな分水嶺のような存在となっている。

バッハはドイツを離れたことこそなかったが、
大変に勤勉かつ勉強熱心で、幅広い音楽を吸収した。
ダングルベール、リュリ、クープランなどの
フランス音楽からは細部の語法や優美さ、
フレスコバルディ、コレッリ、ヴィヴァルディなどの
イタリア音楽からは明朗な旋律やくっきりした形式感、
南ドイツの音楽(フローベルガーやパッヘルベル)
に見られる暖かな叙情性、
北ドイツの音楽(スウェーリンク、ヴェックマン、ブクステフーデなど)
からは深い幻想性や重厚な和声感、
さらにはイギリス音楽の代表者パーセルやパレストリーナに代表される
「古様式」までもを研究した。
そういった様々な要素をバッハは完全に消化して、
彼自身の個性に満ち溢れた偉大な音楽を創りあげたのであった。
とりわけ、古典派のソナタにも比すべき
論理性と音楽性を持つフーガの巨匠として名高い。

当時、ヘンデルやテレマンを含めた多くの作曲家は、
作曲するにあたって、曲の大まかな形を記すにとどめ、
演奏家はそれに複雑な装飾を加えるなどして演奏していた。
しかしバッハは、比較的細部まで楽譜に記した点で
特徴的と言える。

彼の遺した作品とそこに用いられた技法は、
いわば西洋音楽のエッセンスを凝縮したもの
と言うことができるだろう。
それゆえに、現代においてもなお新鮮さを失うことなく、
ポップスやジャズに至るまで、
あらゆる分野の音楽に応用され、
多くの人びとに刺激を与え続けている。

バッハの作品はシュミーダー番号
(BWV、「バッハ作品目録」 Bach Werke Verzeichnis の略)
によって整理されている。
「バッハ作品目録」は、
1950年にヴォルフガング・シュミーダーによって編纂され、
バッハの全ての作品が分野別に配列されている。
また1951年から
ドイツのヨハン・ゼバスティアン・バッハ研究所(ゲッティンゲン)で
「新バッハ全集」の編纂が開始されるが、
10年で終わると予想されていた編纂作業が
ドイツの東西分断など事情で難航し、
2007年に「新バッハ全集」103巻が完成した。
「新バッハ全集」には1100の作品が収められている。
現在も作品の整理が継続中である。


<声楽曲>

バッハはその音楽的経歴の大部分を
教会音楽家として送り、
宗教的声楽曲は彼の作品群の中でも
非常に重要な位置を占める。
特に、ライプツィヒ時代の初期数年間においては、
毎日曜日の礼拝にあわせて
年間50~60曲ほど必要となるカンタータを
ほぼ毎週作曲、上演するという、
驚異的な活動を行った。

今日残されているのは、
ドイツ語による約200曲の教会カンタータ
2つの受難曲と3つのオラトリオ、
6曲のモテット、ラテン語によるマニフィカト1曲、
小ミサ曲4曲と大ミサ曲1曲が主要なものである。
(ドイツ語作品では、ルター派の伝統に立脚したコラールが
音楽的な基礎となっていることが多い)
これらはテクストの内容に密着しながらも、
それを越える深い人間的な感情に満たされており、
われわれに慰めをあたえてくれる傑作の宝庫である。

また、それとは別に、宗教的な題材によらない
約20曲の世俗カンタータもある。
目的は様々で、領主への表敬、結婚式や誕生日祝い、
さらにコーヒー店での演奏会用の作品と見られるものもある。
その中にはしばしばユーモアが滲み出ており、
バッハの人間性にじかに触れるかのような楽しさが感じられる。
なお、テクストを取り替えることによって
宗教的作品に転用されたものも存在する。


<オルガン曲>

生前のバッハは、何よりもまずオルガンの名手として著名で、
その構造にも精通していた。
そのため、各地でオルガンが新造されたり、
改造された際にはたびたび楽器の鑑定に招かれ、
的確なアドバイスとあわせて即興演奏をはじめとした名技を披露し、
聴衆に圧倒的な印象を与えたと伝えられている。

バッハのオルガン作品は、
コラールに基づいた「コラール編曲」と、
コラールに基づかない「自由作品」
(前奏曲、トッカータやフーガなど)の
2つに分類される。
楽曲の特徴としては、
足鍵盤パートが完全に独立した声部として
重視されている点が挙げられる。
また、北ドイツ・オルガン楽派の影響を受けた
初期作品の奔放な幻想性から、
後期作品の古典的完成美までの様式的進展を
跡付けることも可能である。
現存する主要作品は、30曲余りの自由作品と、
コラール前奏曲の4つの集成(オルガン小曲集を含む)、
いくつかのコラール変奏曲である。

<クラヴィーア曲>

バッハの時代には、
ピアノはまだ普及するにいたっておらず、
彼のクラヴィーア作品は、
概ねチェンバロやクラヴィコードのために
書かれたものとされている。
その多くはケーテンの宮廷楽長時代に
何らかの起源を持ち、
息子や弟子の教育に対する配慮もうかがえるものとなっている。
練習曲であるが、非常に美しく、また難易度も高い。


<器楽曲>

バッハの器楽だけによる合奏曲では、
ブランデンブルク協奏曲、管弦楽組曲、
複数のヴァイオリン協奏曲、チェンバロ協奏曲などがある。
特にブランデンブルク協奏曲や管弦楽組曲には、
G線上のアリアのもととなる楽章など、
広く親しまれている作品が多い。
4台のチェンバロのための協奏曲BWV1065は、
ヴィヴァルディの協奏曲の編曲である。

バッハの器楽曲で特に名高いものとしては、
旋律楽器のための無伴奏作品集
『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ』
『無伴奏チェロ組曲』の2つがある。
これらは、それぞれの楽器の能力の限界に迫って
多声的に書かれた驚くべき作品群であり、
それぞれの楽器の演奏者にとっては聖典的な存在となっている。
特に、『無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ』第2番の
終曲にあたる『シャコンヌ』は
古今の音楽家を魅了して止まない作品で、
オーケストラ用やピアノ用など、
19世紀以降様々な編曲が行われている。

一方、室内楽曲作品は、トリオ・ソナタや、
通奏低音伴奏と旋律楽器のためのソナタもあるが、
独創的な作品として注目されるのが、
それまで専ら伴奏として扱われてきた
チェンバロの右手パートを作曲することによって、
旋律楽器と同等、もしくはそれを上回る重要性を与え、
古典派の二重奏ソナタへの道を開いた、
『ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ』
『フルートとチェンバロのためのソナタ』
『ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタ』である。

なお、バッハの場合の「ソナタ」とは
いわゆるバロック・ソナタであり、
古典派以後の「ソナタ」より簡潔な形である。

<特殊作品>
バッハが特に晩年になってから手がけた
様々な対位法的作品群が、
一般に特殊作品として分類されている。
作曲技法が手段ではなく目的となっている点で特殊といえる。
『音楽の捧げものBWV1079』や
『フーガの技法BWV1080』に代表される。
この2つの作品は、いずれも1つの主題に基づいて作られており、
フーガあるいはカノンの様々な様式が用いられている。

  1. 2008/01/26(土) 07:58:34|
  2. Classic~作曲家編~
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